エッセイ88-Essay88-2001.09
茶髪と倫理学と

教室 ここ数年中学生、高校生など十代の若者による殺人事件が多発している。また若い親などが我が子を虐待死させるといった痛ましい事件もあとをたたない。この夏には、混み合った電車で「もう少し中へ詰めてもらいたい、、、」と声をかけただけで暴行され殺害されてしまうと言った信じられないような事件さえ起きた。なんともやりきれない殺伐とした現代風景である。

 「なぜ人を殺してはいけないんですか。」ある若者によって発せられた質問に、大人たちが答えに窮するといった場面も報道されていた。確かにどう答えたら彼らを説得できるのか、一瞬息を飲む質問である。

 かくも荒れた世相を前に、現代倫理学はどういった説を持っているのかと、私は大学の夏期スクーリングでは「倫理学」を受講することにした。

 通信教育部の年齢構成からいって、もちろん二十代、三十代の学生が多いのではあるが三百人近い受講生が集まったなかで、二十歳前後と思われる若者たちが他の科目に比して目立って多いのに驚いた。そして今時の若者らしく男女とも黒髪はいない。茶髪、赤髪、銀髪、さまざまなカラーが室内にあふれていた。

 「このクラスは若いにーちゃん、ねーちゃんがやけにおおいなー。もしかしたらこの先生は単位が取りやすいなんて情報が流れたんじゃないだろうな。」わたしはいぶかしげにつぶやいたのであった。

 講義がはじまった。ギリシャ古代からの倫理学史の講義がすざましいスピードで展開される。倫理学はソクラテス、プラトンの哲学として始まった学問であるから、結構難しい。私の近い席にいる茶髪さんたちも熱心にノートを取っている。

人ごとながら私は密かにおもっていた。

 「この茶髪さん達、いったいどこまで講義がわかるのかな」

 前半100分の授業が済んで10分間の休憩。キャンパス

にーちゃん、ねーちゃん学生達は今終わった講義の感想やら問題点に関してあれこれデスカッションを始めた。驚いたことにそれは確実に講義のポイントをついており、私も思わず聞き入ってしまうような内容のあるものだった。

 「これはこれはおみそれいたしやした。」わたしは胸の内でペコリと頭を下げた次第であった。

  私は杖を二本使わないと歩けない。従って電車に乗っても「どうぞここへ座ってください」と親切に席をゆずって下さる方が多い。そして特に今年はそれが例年にも増して多いように感じた。

 そんななかでふと思ったのだが。

 世の中が何か刺々しくなって人々はいらだっているかも知れないが、そのような現実を前に、「これではいけない、何とかいい方へ持っていきたいものだ」と考え始めている人がふえてきているのではないか。若者達もいろいろ問題を起こしがちではあるが、そんななかからそれぞれが何かを考え始めたのではないか、と。

世の様を眺めていると前途を悲観したくなるかも知れないが、私は倫理学の教室にいて、「まだまだ日本も捨てたものではないぞ」といささか意を強くした次第であった。

 ところで現代倫理学では「絶対的な善」は不可能である、というのが定説となっている。哲学、倫理学その他どの学問分野でも今は、「永遠の、、、」という言葉が当てはまるものは無いのだ。

 真、善、美。 かつて最高の価値であったものが、今では皆条件付き、つまり相対的なものになっている。しかし本当にそれでいいのだろうか。私もそれらに関してもう一度考えてみたいと思っているのである。



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