この文章は、去る九月三十日、紋別港ロータリークラブの例会日に際し、卓話の要請をいただき、お話させていただいたものです。文章用にいささか手を加え、ひとつの作品に仕上げました。
皆様はこの市内で、それぞれ指導的立場にたっておられる方ばかりであり、私は街の片隅で子供達を相手に、三十数年塾をやっておりまして、そんな私が本日どんな話をしたら良いのかいささか迷うところではありますが、自分がこれまで通ってきた道についてお話させていただこうと思います。
ご覧の通り私はいま杖をついておりますが、これは七年程まえからこのようなことになりました。うちの子供達が中学生になったころからスキーをやるようになり、その後全道大会にもたびたび出場いたしておりましたが、自信をつけた私は、いつか国際大会にも出場したいと、平成二年秋、階段登りや縄跳びといった激しいトレーニングを始めました。その数年前から左足に痛みを感じてはいたのですが、日に日にその痛みが増して参りました。でも、単なる筋肉痛だろう、そう自己判断し、さらにハードなトレーニングを続けているうちとうとう激痛におそわれ、身動きできなくなってしまったのです。そして今日まで杖が離せなくなってしまいましたが、現在では、杖を生涯の友にして行かなくてはならないものと覚悟いたしております。
私が五歳のとき、昭和二十年八月八日、旧ソ連が日本との不可侵条約を一方的に破棄し、翌九日未明から怒濤の進撃が始まりました。国境のまちハイラルはその第一撃を受けました。午前八時頃、第二派の爆撃があり街は壊滅状態になりました。その際、私の家の向かいの民家に爆弾が落ち、そこの奥さんは頭を吹っ飛ばされて亡くなりました。わずかのずれで生死を分けたのですが、この時以来、私の危機一髪の人生が始まったのだと常々思っております。
引き上げのまでの一年間チチハルという街におりましたが、ソ連軍が進駐してきた際、女子供は厳しく外出禁止を言い渡されました。仕方がないので子供達は建物内の階段の手すりをすべりおりるというような遊びに熱中するようになりました。私もその中に入っておりましたが、ある日ひとりで遊んでいたとき、つい手をすべらせて、地下におりるコンクリートの階段の上にたたきつけられました。そのとき背中を強打し、それが原因となって、帰国後発病し、それいらい体の障害と共にあるくことになりました。あのとき頭を打たなかったのが今から考えると不思議です。間違えばあそこで命を落としていたかもしれないのです。
昭和二十三年頃が一番悪い状態で、下半身がしびれ医者も手をあますほどになっておりました。そんななかある日訪ねてきた一人のおばあさんの真剣な祈りによって助けられ学校に行けるようになりました。その後もさまざま病状がでましたが、昭和三十四年、高校二年の秋にカリエスが再発しました。しかし学校を休むのが何よりつらいことであり、また大学にも行きたかったので、家のものにも内緒にしてこっそり膿が出るのを手当しながら通学をしておりました。翌、昭和三十五年秋、ついに高熱に襲われ学校にも行けなくなり入院、結局退学することになりました。このようにその後もさまざま危険に遭遇し、今日こうして自分が生きていることは本当に不思議なことだと我ながらに思うのです。
一年ほどで退院しましたが、体調不十分な中で、「自分は、そして人間とは何なのだろう。人は何故生きているのだろう。」さまざま思い悩むようになりました。友人達は進学、就職となんの障害もなく自分の道を歩んでいるとき、私は苦悩のどん底で暮らしておりました。
昭和四十年「人生これまでかなー。ここで何か見つからなかったら、この世におさらばしようか。」そんなことを考えながら、天理教の修養科という三カ月間の修養機関に入りました。
そこで我が人生の最大の師とも仰ぐ方との出会いがあり、哲学の手ほどきを受けることになりました。それ以来、宗教というものは、組織破壊者と見なしたものにはおそろしい圧力を加え、ときには抹殺することさえあるものだとの実感を持つような、様々な軋轢がありました。そんななかで、ハイデッガーの哲学をまなび、これが解るようになったら自分の人生に光がさすようになるのではないか、それを頼みの綱に十五年間、正気と狂気の境に自分を置いて学び続けたのです。
今、人生を振り返りますと、身体的にも精神的にも崖っぷちぎりぎりですごして参りましたが、もうだめか、というところでいつも、どなたかに手をさしのべて頂き助けられて参ったのが私の道だったと、つくずく思うのです。そしてこのような模様の中で、「今日一日、今日一日」と今日だけを頼りに生きて参りました。
今から五年ほど前、突然、なにか書きたい、との衝動に駆られ、自費で本を出版し、その後も次々かいて、とうとう五冊も出版してしまいました。私には文才があったわけではありません。五十歳をこえてから狂い咲きの如く書き始め、今皆様のお手元にある、森の文章を書くようになった頃から、ようやく心が楽になりました。二十四,五才の頃に、現在のような心境で生きていきたいと願って模索の道を歩み始めたのですが、五十才も半ばを過ぎてようようそこに到達出来たように感じています。
先日、テレビで、ある人が語っておりました。トマトの栽培をする際、決して甘やかさない、そして過酷な条件を与えてやると、栄養価の高い味の良いものが出来るのだ、極限の中でこそトマトが本来持っている一番奥にあるものが出てきておいしいものになるのだ、ということです。これを聴きながら何か私は自分の人生の意味が解ったような気がいたしました。生死の境目を危なっかしい足取りでかつかつ生きている間に、自分の精神の奥そこで眠っていた何かが、今芽を吹き出したのでは無いかということです。
私は現在五十七才ですが、よくここまで生き延びてこられたものだと、いつもおもっています。本当ならとっくに無かった命ですから、一日一日がもうけものなのです。ですから毎朝「今日も精一杯いくぞ」とこころに誓い、悔いなく生きよう、そして同じ生きるのなら、自分の生きざまそのものがどなたかの心に火をともすような生き方、他の人にとって応援になるような生き方をしたいと願っているのです。それは私自身断崖のへりを歩いてきた人生において、親のほかに、この方々なしでは自分の今日は決してあり得なかった、という方が三人いらっしゃいます。
もうすでに亡くなっておられますが、私は毎朝この三恩人の名を呼んでお礼申し上げております。そして私の日々の歩みが人様の励みになるように生きることが、いささかなりとも恩返しになるのでは無いかと考えるからです。「あの人のおかげで今日の自分がある」「あいつに出会ったから、ここまでこれたんだ」と蔭で言ってもらえるような種を残したい。そうなれば私が奇しくも人間に生まれあわせた栄誉に、応えたことになるのでは無いかともおもうからです。
ようやく現在の穏やかな心境に到達して参りましたが、私はかつて果たせなかった卒業をめざして今高校生であります。来春卒業したら、その次は通信制の大学に進もうと考えています。ここから私の青春が始まるのです。人間としての自分の可能性を追求しそれを花と咲かせたい、勿論一人の人間が学びうることはたかがしれていますが、その極限まで歩んでみたいとの大望を抱いています。
私は毎日数時間、藻別の森の中で過ごしておりますが、そこを学舎として、明日のことはともかく今日一日、今日一日と、いつも前向きで心明るく生きていきたいと願っております。