エッセイ63-Essay63- 1998.01

<五 才>


 

  新しい歳をむかえた。雪も少なく比較的すごしやすい。三月にはいればいかに北国とはいえ、ぐんぐん春へとむかう。あと二ヶ月足らずのしんぼうだ。

 札幌に住む孫がきている。昨十二月二日、五回目の誕生日だった。己が加齢の速さもさることながら、子供の成長のなんと早いものか、とあらためて実感する。

 「みっちゃん、歳いくつ。」「五さーい。」自分はもう幼い子供ではないと言った、いかにも得意そうな顔。それを見て私の脳裏に湧き出した、自分の五歳時の記憶が孫のうえにかさなっていく。

 「俺が降り注ぐ爆弾に追い立てられながら、満州の草原を逃げまどったのは、この子の今頃とほぼ同じ時期だったんだなあ。」

 昭和二十年八月九日、突如のソ連軍侵攻。満州にいた同胞達は、この日を境に奈落の底に突き落とされた。国の帝国主義政策にのり、幾百万の日本人が関東軍の銃に守られかの地に渡っていた。そして、意識的か、知らぬ間にかは別として、その地の人民にたいし、傍若無人の狼藉をはたらいていたことは、多くの証言、記録であきらかである。が、いまそれらに関し見解を述べるつもりはない。

 ただ、あの極限状態の中で、目の前をにぎやかに走り回っている孫と同じく小さな体の、右も左もさだかでない幼児がよくも生き残ってこれたものだと、あらためて感慨にふけるのである。それは、爆撃、銃撃、暴徒の襲撃ほか栄養失調やハシカ、腸チフス、発疹チフスなどで、幼児、少年、老人ばかりか、屈強な男達さえあっけなく命をおとす日々だった。

 私は引き上げ途中の収容所での事故がもとで、帰国後、胸腰椎カリエスに冒された。その後もさまざまな病苦はやすみなく五十余年の人生につきまとった。しかし、親、兄弟はじめ多くの方々の真心をいただき、孫と対面できる今日まで生き長らえてきた。

 それやこれを思うに付け、我が命にたいし、いとおしさがつのる。命はその本質において聖なる炎であり、光だとおもう。そしていつの日か、

 「おまえを生かし燃え続けてきたことは無駄ではなかったぞ。」と命から言われるようにしたいと思うのだ。

 歳はあらたまった。よろこび勇んで学びの道を行くことにしよう

 



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