Forest of OKHOTSK
エッセイ24-Essay24-   01.08.1996

<夏草や>


  肌寒い日が続くオホーツク地方。今年の不作は確定、などと悲観的な予報がされている。確かに今月に入って、1日中お日様の顔を拝んだ日がないうちに、すでに月末を迎えてしまった。
 しかし農作物とは違って、ふつう雑草と呼ばれている草草は、1メートルを越え、なかには2メートルに達しているものもある。
 道ばたではオニシモツケが白い小さな花、数千個をひとかたまりにふさふさと垂らして風にゆれている。エゾニュウも花房を大きな包みから取り出す準備を始めている。エゾカンゾウが終わり、草花の暦では季節はまさに盛夏である。
 これらぼうぼうと延びた夏草の前に立ったとき、なぜか私の心に芭蕉の句がうかんだ。

   夏草や 強者どもが 夢のあと

 この句は高校時代、奥の細道を原文で読んだ時に出会っていた。しかし発句の「夏草や」という言葉が開く情景は、その時は勿論、30数年後の現在まで、心にはまったく見えていなかった。
  今年、草花に心奪われ、早春からカメラをもって季節の後を追いかけてきた。今、身の丈をはるかに越える夏草に導かれ、ついに私はその言葉の実感に到達した。芭蕉の心象をここから伺うことが出来る。
 2、3句へつながることによって表明される彼の人生観や、そして陸奥(ミチノク)への旅に駆り立てた心情も、私の人生行路を透かし見ることにより、思い当たるものがある。しかしこの場ではそれを語るのはやめておこう。ただ、夏草や、に関してのみいささか語りたい。
 湿気を含んでむっと暑く重たい風が、一族の夢をかけた栄華の舞台であり、やがて戦場ともなった荒れ野には、よどみがちに行きつ戻りつしていたことだろう。大小の赤、黄、白の名も知らぬ草花が入り交じって揺れていたにちがいない。小鳥達もせわしく鳴き交わし草むらを出入りしていた。芭蕉の鼻は、草のほのかに甘い香りをかぎ取っていた。眼は、草の根本、茎、葉をはいまわる虫を捕らえ、クモが編み上げた糸の罠が光っているのも見ただろう。
 足下には、ぬるんだ水が草を浮かべて流れていた。水中には小魚やゲンゴロウが懸命に生きている姿も見えただろう。穏やかなせせらぎの音は長旅で疲れた体と心に安らぎを与えたはずである。
  人間が地上に現れるはるかな前からそうであったように、今もまったく変わることのない自然の営みがそこには繰り広げられていた。そして、その光景は芭蕉から350年後の私の目の前でもまた変わっていない。
 今、私は、カメラのファインダー越しに迫りくる、その同じ風景に圧倒されながら、我が行く道をレンズの遥か向こうに見据えている。



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