<なぜ花が、かくも多く>
さて我が森はどのような事情になっているのだろうか。私がここを買って以来二十一年になるが、当初は他と同じで、ものすごいササ藪であった。竹のように硬いササを前にして、とほうにくれながらも、小さな手鎌で人間の利用にたえるものにしようと悪戦苦闘がはじまった。
これまで繰り返し語ってきたが、今年四月末のヒメイチゲにはじまり、八月のクルマユリまで私は森で次々開く草花の写真を撮り続けてきた。もう二百枚にもなる。種類で言えば百八十種くらいになるだろう。
そのうち、私の森以外で撮ったものは十五種程だ。
あとはみんな森や家の横の道ばたでみつけた花なのだ。その数の多さにおどろいている。なぜ我が森にはこれほどたくさんの花があるのだろうか。今日はそのことについて語ろうと思う。
森と人との関わりには古い古い来歴がある。だいたい人間は森でサルから人間に進化したのだから、はじめから森とは切っても切れない縁がある。
ここではそんな太古の話には触れないでおこう。我が国に稲作が伝わったのは今から四千年以上も前のことらしい。
当時肥料は動物や人間の排泄物と草木を混ぜ合わせて作ったたい肥であったろう。
それいらい、人々は森で枯れ葉や枯れ枝を集めるようになった。そのほか煮炊きや暖房用の燃料と
しても森に入り森の分け前をいただいていた。このような森と人との生活を通しての関わ
りが、そのまま森の手入れをしていることになっていた。
森の中は風通しもよく日もさし、さまざまな草花が生育する良好な環境ができあがっていた。このような人と関わりの深い森のことを里山とよぶ。
このような里山との関わりは、現代の化学肥料が出現するまで数千年にわたって続けられてきた。だから日本の国土は狭いわりには草花の種類がおおかったのだ。ところが近年、化学肥料万能以外に、外国から安価な木材が大量に入ってきて我が国の林業は惨憺たる状態におちいった。
山林地主は森の手入れをやめてしまった。
さらに山林労働者もますます少なくなりあれ放題に荒れている。そのほか、宅地やゴルフ場をはじめとするリゾート開発などにより野も山も単調なものに作り替えられてしまっている。
もう我が国には里山と呼ばれ、村人全員で管理されるような森はほとんどなくなってしまった。それ故、幾多の植物とそれを食料としていた虫や鳥なども絶滅していきつつあるのが実状である。
北海道の森はどうなっているのだろう。戦後、広葉樹を雑木と呼び、ばたばた切り倒してカラ松が広大な面積に植え込まれた。ところがそろそろ伐採期に入ってきたのに、外材に押され、本州と同じような状況である。
林床は強靱なクマザサでおおわれ、他の植物は入り込むすきがない。仕方がないので彼らは道ばたに生活の場をもとめた。また酪農王国とよばれるだけあって、牧草地や牧場としても大規模に山林が切り開かれている。
視点を野草の方から採れば、それらにとっては非常に暮らしにくい環境だといえる。
やがて開発局の使い古した大鎌をもらいそれで立ち向かった。しかしそれら人力ではらちがあかないことが見えてきて三、四年後、エンジン付カッターを払い下げて貰い、ようやく、頭に描いた通りの形に森を開くことが出来るようになったのである。
そして森の中に百五十坪ほどの公園をつくった。ほかに前地主の畑を再度開き、足を痛めるまでの十五年間、様々な野菜を栽培した。
そこは百坪くらいの面積であった。その間、その開いたところだけは毎年ていねいに草を刈り、休憩所をつくったり、木の下枝を払うなどの手入れをしながらすごしてきた。
そうしている内いつのまにか様々な草花が目に付くようになってきた。今考えると、私が樹木に目覚め、やがて草花に心奪われるようになったのは、我が森に人間の手が入り、身近に様々な草木が新たに芽吹くようになってきたからだと思われる。
つまり、私や家族の者がヘビの幻影におびえ、懸命に家の周りの環境整備に励んでいたことが、この森をかつての「里山」にかえたのであった。
日当たりのいい場所、やや日陰になる場所、ほとんど日が入らない場所とさまざま変化に富んだ森林空間がつくられた。
やがて森の中に遊歩道が切り開かれ、いっそうそこは、野草達にとって良好な生育環境となった。数年前から、森の遊歩道沿いには、何十種類ものキノコが育ち森へ行く楽しみを増してくれるようになっている。
かくてわが里山は実り豊かな花園となったのである。開墾に汗をしたたらせた日々が報われた。森の原生花園に憩いながら私は考えている。極楽浄土は寝て待っていては現出しない。神仏と人と自然の生き物達の共働によってこそ顕れる、と。