<私は泣いた>
駆け込むように森に入り、きのう、腹這いになり汗を滴らせながらシャッターを押した場所へ向かった。
あれ、あれっ、おかしい、ないぞ。確かこの松の下のここにあったはずなのに。
しかしそれも見あたらなかった。
私はすっかり力が抜けた。半ベ状態だった。それにしてもあのササ陰にひっそり咲いていたのをよくみつけたものだ。その上、花の付いていないほうまで見つけて持ち去るとは、よほど野の花に詳しい人なのだろう。そういう人なら、ただ花瓶にさしてながめるなんてことではなく、野草に関する深い趣味の持ち主にちがいない。その人が愛でてくれることを想像し、腹はたたなかったが、やはり寂しいことだった。
以前にもこんなことがあった。五月末、遊歩道わきでユキザサがつぼみをつけていた。私は花が開いたら写真におさめようと、毎日つぼみが膨らんでくるのを眺め楽しんでいた。
私にしたところが、野の花を摘むことはしばしばある。でも三本見つければ二本は残す。山菜を採る際もそのように心がけている。野山を好んで歩く人はたくさんいるが、山や森に対する礼儀が不十分だといつも思う。私の森にはウド、ワラビ、タラノメといった山菜や薬草などが結構あるから、ほしい人は摘んでいってかまわない。
心に涙しながら遊歩道を二周りした。そして枯れ枝に隠れて難を逃れたもう一本のギンランをみつけ、少し心を軽くして帰路に付くことができた。なにしろその花は、私が連日あちこち深い山奥までうろついていても、ほかではまだ発見していない貴重な花なのだから。
いつもなら午前中から森に出かけているのだが、午後から会議があるのでパターンを変えて、午前は町の中をうろついていた。二時半になってようやく解放され、生徒が来るまでにまだ一時間あったのでそのまま森へ向かった。
きのう森の遊歩道でギンランを見つけ撮影した。二本は花が付いており、別の場所に出た二本はまだ頭がたれていて、花茎はだしていなかった。花のある方の一本は先輩宅に届けたが、残りは順次咲き出してくるのを楽しむつもりであった。
私はうろたえて、別の場所の方へ急いだ。 あれはまだ花も付いていないから、よもや持って行かれることはないだろう。心ではそうつぶやいていた。
もう数日で花だ、と思われたある日、それは誰かに持ち去られてしまった。
きっと今回ギンランを持っていった人と同一人だろう。幾多の野草の中から、とりわけ可憐なそれらを選び分けるとは、どのような趣味の持ち主なのか。会ってみたいと思う。
恨み言を言うつもりはない。怒ろうとも思わない。しかし森の飾りと私の楽しみのために、せめて一輪は残しておく、ゆかしさが欲しかった。そのことは伝えたい。
けれども見つけしだいひとつ残さず持ち去るということは厳に慎んでもらいたい。そのほうが当人もふくめてたくさんの人が、末永く楽しめるというものだろう。